禅の庭・重森三玲の庭 指月斎blogを再開します。

龍源院の南庭 鶴亀蓬莱の吉祥庭園の典型

 

 

禅の庭・重森三玲の庭

   

禅の特徴は「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」。

 「ふりゅうもんじ、きょうげべつでん、じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ」と読む。

 

「禅とは、文字や言葉にとらわれることなく、今、ここに生きる人間の心の本性を明らかにしようとするものであり、別の言葉で言えば、禅の心は教えられるものではなく、直観するものだ。」ということだろう。私は禅の庭について文字や言葉で伝えようとしているのだから、元々無理なことを承知で困難を乗り越えようとしている。

  

神々について、そして自然の中に神々を感じた縄文人の心に踏み込むには今から約1万年前の日本の気候変動から入ろうと思う。

 今から約1万年前、宗谷海峡が出来て、日本列島は完全に大陸から切り離されることになった。それから約4千年をかけて宗谷海峡は60mの深度を獲得するのだが、地殻変動説と海水面の世界規模での上昇という二つの説があるようだ。

 今では後者の説が有力だが、いずれにしろ、海岸線近くに住んでいた縄文人にとっては壊滅的な生活環境の破壊であり、山間部への移住を余儀なくされた。

 

これは北海道だけの現象ではなく、同じ時期に東京都北区飛鳥山では台地が500mも縄文海進により削り取られたという。この地の縄文人はやはり壊滅的な打撃を受けて石神井川沿いの高台に移住をしていったと思われる。

 激しい気候変動や地震・雷・火事・津波により、豊穣の低湿地を追われた縄文人は寒さに震え、夜の闇に光る野獣の眼に恐れ慄いたことだろう。それがやがて、硬い岩盤を持つ巌(いわお)への畏怖となり、信仰の端緒になったと思われる。

 

 

 

  

 

磐座(いわくら)への信仰は、削り取られる海岸線から逃れ、もうこれ以上の浸食はないであろう硬い岩盤(巌)への信仰として、おそらくその時代に定着していったと思う。

時代が下がるにつれ、気候変動も収まり、信仰のあかしとして磐座を整え、そこで祭祀が行われた。やがてそこに拝殿が出来、神社になっていったのだろう。

  

聖徳太子の時代には、弱い神々への補強手段として外国(中国)から仏教を取り込み、神社の近くに寺院を置いた。信仰の基盤は昔ながらの磐座という事である。

日本人の優れた特性は積極的に外国の優れた技術・文化を取り入れながら、それを日本化する技術を持っていたことだと思う。

  

日本の庭園文化の始まりは、磐座への祭祀であると言われている。

 石を立てることが、神々の創造につながる。重森三玲は優れた作庭家であると同時に500もの庭園の実測調査をした理系芸術家としても知られている。また、重森ほど石を立てることにこだわった作庭家はいないだろう。

 

重森の晩年の作庭である松尾大社の「上古の庭」「曲水の庭」は、重森の思想の集大成であると思われる。石を立てることを、ここで意欲的に実践している。

 「上古の庭」では神々の競演を石を立てることで展開しており、「曲水の庭」では神々に見守られながら、曲水の宴を楽しむ日本人を優しい神々の視点から表現しているように思われる。

 近世の大名庭園が堕落した庭園であるという意味も、この松尾大社の庭園を見ればわかる。そこに神々は生きているかと問いかけているように思われる。

  

<参考図書>

 「禅僧とめぐる京の名庭」枡野俊明(アスキー新書)2008

 


上古の庭

画面左側の2柱の巌が大山咋神(おおやまぐいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を表す。神々の饗宴である。

 

曲水の庭

手前が人間の領域である曲水部分で、後ろの立石が神々を表していると思われる。

 

龍源院の南庭

右奥の鶴島、中央の蓬莱山、手前の亀島となる。この位置からの鑑賞に堪えるように遠近法が使われていて、右奥の鶴島が小さく見えるように工夫されている。

 

龍源院の南庭

中央の蓬莱山は三尊石組みで表現されている。

 

上古の庭

2柱の神は互いに寄り添い、命の清水が接触面から流れ下っているように見える。

 

曲水の庭

後方の立石部分。自然石の三尊石組みは、仏教的世界観であるが、その根底には自然=神々の思想がある。

 

龍源院の南庭

右奥の鶴島に近づいて見ると、鶴首石と羽石からできていることが分かる。

 

 

龍源院の南庭

二石と苔で亀島を表現している。合計七石での蓬莱表現は竜安寺石庭の15石を下回り、正に簡素の美に徹している。