近江八景のひとつ「唐崎夜雨」に登場する「唐崎の一ツ松」

 

 

2015年6月、小石川後楽園とのつながりを探して「近江八景」を取り上げたことがきっかけで、その後日本人の美意識について考えるようになった。

 

伏見通信「近江八景」(クリックしてください。2015年6月「近江八景」が開きます。)

 

近衛信伊(このえのぶただ)1565年生~1614年没
1605年から1606年にかけて約1年3か月「関白」を務めた。

近衛信伊が「瀟湘八景」からいかにして「近江八景」を発見したのか、大変興味のあるところだが、今のところ手掛かりさえ掴めていない。


近衛信伊も若いころ見たであろう狩野元信(1476年生~1559年没)の「瀟湘八景(重要文化財)」を京都国立博物館で見ると、その景観は日本のものとは思えない。はるか遠く見たこともない架空の風景、もしくは中国の絵師が描いた「瀟湘八景」を模写したものなのだろうか。


元信の「瀟湘八景」からは柔らかな筆遣いと深山幽谷の雰囲気が伝わるのみで、「近江八景」のおおらかで明るい風景は想像できない。近衛信伊がどのようにしてこの絵から「近江八景」を発見したのか、その心象風景はうかがい知れない。

 

「瀟湘八景」とは、景勝地として名高い洞庭湖(中国湖南省)付近の八通りの景観を絵画化したもので、北宋時代の文人画家・宗迪(そうてき)が創始したと伝えられる。八景とは


山市晴嵐(さんしせいらん)
遠(煙)寺晩鐘(えんじばんしょう)
漁村夕照(ぎょそんせきしょう)
遠浦帰帆(えんぽきはん)
瀟湘夜雨(しょうしょうやう)
洞庭秋月(どうていしゅうげつ)
平沙落雁(へいさらくがん)
江天暮雪(こうてんぼせつ)

 

「瀟湘八景」とは言いながら、いずれもこの地域に限定される風景ではなく、ごくありふれた身近な景観だったので、日本では「近江八景」の後、さまざまな「八景物」が生まれてくることになる。

 

「近江八景」が史料的に見て、いつ頃選定されたかについて明確ではないが、おおよそ江戸時代の初期であると推定される。室町時代説もあるが、史料として残されたものでは近衛信伊の画賛が最初であろう。
近衛信伊は「近江八景」を水墨画で描き、それに一首ずつ和歌を添えている。

 

石山秋月(いしやまのしゅうげつ) 
石山や鳰(にお)の海てる月影は 明石も須磨もほかならぬ哉

 

勢多夕照(せたのせきしょう)
露時雨(つゆしぐれ)もる山遠く過ぎきつつ 夕陽のわたる勢多の長橋

 

粟津晴嵐(あわづのせいらん)
雲はらう嵐につれて百船も 千船も浪の粟津に寄する

 

矢橋帰帆(やばせのきはん)
真帆ひきて矢橋に帰る船は今 打ち出の浜をあとの追い風

 

三井晩鐘(みいのばんしょう)
思ふそのあかつきちぎる始めとぞ まず聞く三井の入あいの声

 

唐崎夜雨(からさきのやう)
夜の雨に音をゆづりて夕風を よそにそだてる唐崎の松

 

堅田落雁(かたたのらくがん)
峰あまた越えて越路にまず近き 堅田になびき落ちる雁かね

 

比良暮雪(ひらのぼせつ)
雪晴るる比良の高嶺の夕暮れは 花の盛りにすぐる春かな

 

<注>鳰(にお)とはカイツブリの和名。かつて琵琶湖に多く生息した。

 

小石川後楽園(以下後楽園)には「唐崎の一ツ松」が現存する。
また、後楽園の紅葉林から舟入にかけてかつて「長橋」がかかっていた。元禄の大地震で大破し、その後廃されたと記録にある。これが「瀬田の唐橋」を指すことは「勢多夕照」の和歌に「勢多の長橋」とあることからも明らかだろう。
近江八景の内、二つだけが取り上げられたのはなぜか?

 

江戸期の後楽園史料からは「唐崎夜雨」「勢多夕照」の文字を見出すことは出来ない。ここからは推測になるが、「唐崎の一ツ松」「勢多の長橋」の記述があるからと言って「近江八景」との関連性を見つけ出すのは難しそうだ。

 

「唐崎の一ツ松」は古代から記述が見られ、持統天皇11年(697)に唐崎神社が創建されている。また、「勢多の長橋」は壬申の乱(672年)の決戦場としても有名であり、後楽園に「唐崎の一ツ松」「勢多の長橋」があるからと言って「近江八景」と関連付ける必要はない。

 

後楽園の作庭開始は1629年であり、最初のお披露目が1634年とされているので、近衛信伊が「近江八景」を残して世を去って20年しか経過していない。おそらく、「近江八景」は京都や近江では知られていても、まだ全国に知られる存在にはなっていなかったのではないかと思う。


「近江八景」が注目を集めるようになるのはもう少し後、松尾芭蕉(1644年生~1694年没)の活躍によるところが大きいのではないか?
芭蕉は大津で89の句を詠んでいて、芭蕉の全発句の約1割近くにあたる。

 

唐崎の松は花より朧にて
五月雨に隠れぬものや瀬田の橋
名月はふたつ過ぎても瀬田の月
この蛍田毎(たごと)の月にくらべみん
比良三上雪さしわたせさぎの橋
三井寺の門敲かばや今日の月
鎖(じょう)明けて月さし入れよ浮御堂

 

「この蛍田毎の月にくらべみん」については注釈が必要だろう。
これは石山寺の蛍を詠んだものだ。


伴高蹊(ばんこうけい)の「閑田耕筆(かんでんこうひつ)」享和元年(1801)によれば、
「近江八景は、唐山の八景に擬せられしは勿論なり。そのうち石山秋月といふは、世に伝ふる紫式部、この寺に籠りて、8月15夜湖面に映る月を見て、須磨、明石の巻より筆を立てそめて、源氏物語を成せりといふによりて、題せられしものと思ひしを、このころ一知己のもとにて、近衛三獏院殿下(信伊)の御自筆の、この八景御歌の一巻を拝見せしに、その御奥書下の如し。
最前三上山之月を主上にあそばし候はんとの事故、それをば用捨故、石山になをし候、石山の鐘をば三井になをし、落雁を堅田に改候、(中略)
かかれば元は三上山秋月、石山晩鐘、三井落雁と思し召けるを、御製に憚りて、次を追て改給ひし成べし。予正に知る。
この石山の月、中秋の頃かつて湖面に映らず。遙か南にあり。紫女の伝説も、よく地理を知らぬ人の言ひだしたることならん。この源氏、この寺にて作られたるという説の非は、すでに安藤為章の紫女七論に委しければここにはいはず。八景もこの浮説により給へるにあらざること、この御自筆にて明らけし。湖水の月を賞する人は、三井寺堅田に行くべし。石山は唯蛍におきては他に無双とおぼし。」

 

伴高蹊は近江八幡の豪商の5代目で、江戸時代の統計では百姓に分類される。(現代では百姓=農民と思っている人が多いが、それは間違いだろう。「百姓(ひゃくのかばね)」とは元々人民とか臣民を表すべきものと思われる。)


「閑田耕筆」を読むと江戸期の裕福な家庭の教育水準の高さに驚かされる。江戸期百姓の知的水準の高さに比べ、裕福な現代人の教養の無さが身に染みる。

 

今まで疑問に思っていたことが、200年前の伴高蹊の考察により解消された。
歌川広重が「石山秋月」でありえない位置に満月を描いた理由もここにある。石山寺では湖面に満月を見ることは出来ないのだ。むしろ「石山月蛍(いしやまのつきほたる)」とするのが、理にかなっているのだろう。

 

江戸時代の半ばころには「近江八景」は「瀟湘八景」を離れて、日本の代表的な名勝の典型として意識されるようになる。日本的な美の典型が「近江八景」になっていくのである。
「近江八景」が京都・近江だけでなく、全国的に知られるようになるのは、松尾芭蕉没後百年ほどが過ぎたころだろう。秋里籬島の「東海道名所図会」寛政9年(1797)の出版が「近江八景」の知名度を飛躍的に高めた。
なお、秋里籬島(生没年不詳)は京都にいて、読本(よみほん)および名所図会の作者として、安永年間(1772~1780)から文政年間(1818~1829)にかけて活躍した。また、作庭家としての著書「石組園生八重垣伝」もあり、京都には籬島の作品である庭が残っている。

 

さらに、鳥居清信、葛飾北斎、歌川広重など、当代を代表する絵師たちが、「近江八景」の版画を世に出したのが、人気に拍車をかけた。


なかでも広重(1797生~1858没)の「近江八景」が著名であった。広重は天保5年(1834)ころに「大判錦絵近江八景」を描き、人気を集めた。広重はその後、次々と大小の縦横さまざまな形の「近江八景」を描き、大津歴史博物館によれば、生涯27種類に及ぶという。

 


石山秋月

 

矢橋帰帆

 

勢多夕照

 

三井晩鐘

 

粟津晴嵐

 

唐崎夜雨

 


堅田落雁

 

比良暮雪

 

「石山秋月」では月が湖面の北に出ている。湖面に映る月を見るためには、広重はここに月を描くしかなかったのだろう。

 

 作者不詳の謡曲「三井寺」には、「瀟湘八景」と「近江八景」を結び付ける何かがありそうだ。