石塔寺の石仏群。

 

 

「石塔寺(いしどうじ)に最初に行ったのは、ずいぶん前のことだが、あの端正な白鳳の塔を見て、私ははじめて石の美しさを知った」(白洲正子「かくれ里」の「石をたずねて」より)

 

蒲生野をさ迷って2万歩を超えて歩いた日(11月25日)、桜川から徒歩で「石塔寺」を訪ねている。観光バスが一台停まっていて、境内は結構込み合っていた。観光客を避けるように石仏を訪ねて山を一周している間に、人っ子一人いなくなり、そうなると石仏が美しいというより、逆に恐ろしく、その場にいられなくなった。

 

石仏にはそれぞれ個性があり、個々に美しいのだろうが、集団になると恐ろしさが先に立つ。どんな柔和な顔をした石仏でも、その歴史に思いを馳せると石にも「意思」を感じてしまう。一人が一体の石仏を作ったのか、あるいは一人が百体の石仏を作ったのか分からないが、そこには「死」と隣り合わせの「思い」が感じられる。

 

ストゥーパとは本来「仏舎利」を納めたものであるが、紀元前3世紀にアショカ王が各地に建ててからは供養塔の性格を帯びるようになり、日本では卒塔婆(そとば)に変化していった。

 

石塔寺のパンフレットから抜粋する。
「阿育王(あしょかおう)塔は寺伝によれば、釈尊御入滅後200年後、印度の阿育王が仏法に深く帰依し、八万四千の塔を造り、仏舎利を納めて世界に撒き給ふと。日本に二基来るうち一基は当山中に埋まれり…(中略)

 

聖徳太子、近江の国に四十八箇寺の伽藍を建立し給ふ、その最後の結願の建立で、本願成就寺と称せしに、400年後の今、また阿育王塔を得たり、仏縁深き霊地ならんと、七堂伽藍建て改め、(一条天皇)石塔寺と号を下し給ふ…(中略)…なお学説によれば、阿育王塔は推定飛鳥時代と云われ、日本最古の塔であることは定説であるが、応仁の乱、織田信長の元亀の兵火等に罹り、伽藍文献等を焼失し…(中略)…遺憾なり」

 

蒲生野をさ迷ったのは、額田王と大海人皇子の「相聞歌」の舞台装置を確認したかったからで、石塔寺は行きがけの駄賃のつもりだった。しかし、石塔寺を見ることによって、近江のお寺の背後には必ず石の信仰があり、古代のままの磐座が「かくれ神」として祀られていることに気付いた。

 

中国では石仏、木仏、金属仏が多くみられ、日本では木仏、金属仏が多いという傾向がある。
日本では石の文化がもともと自然石に偏っていて、大陸・朝鮮からの渡来人の影響で自然石を加工する(石仏)文化が根付くのが遅れたというのが通説であるが、果たしてその理解で良いだろうか。

本日(12月1日)、関寺の牛塔・百体地蔵を見て石の文化について考えるところがあり、石塔寺と関寺の牛塔・百体地蔵を併せて紹介してみようと思う。

 

<参考資料>
かくれ里(白洲正子)講談社文芸文庫1991年

 


石塔寺の入り口。

 

ストゥーパ(重要文化財)は総高7.5メートル。

 

石仏群。

 

釈迦三尊か阿弥陀三尊と思われる。

 

刈り取りの終わった田。新嘗祭(にいなめさい)のための斎田(さいでん)だったことを示す標柱が立つ。

 

関寺の牛塔。高さは3.3メートルある。日本的フォルム。

 

関寺の牛塔についての案内板。

牛塔の由来について説明してある。

 

百体地蔵。

思ったより小規模だが、石塔寺と同じ発想と思われる。

 

小野小町の供養塔がある所以が、案内板に説明されている。

 

階段登りの最初から石仏群がお出迎え。

 

別角度からのストゥーパ。

 

山中の石仏群の内、比較的大きな千手観音。

 

石塔寺本堂からの景観。

 

何処までも広がる蒲生野。

蒲(がま)は低湿地に生える。水田にするまでの苦労を思う。

 

階段の途中から見た牛塔。左の建物との比較で大きさを感じる。

 

牛塔の隣にある獣魂碑。

人間以外の供養碑があるのは日本固有の文化らしい。

 

小野小町の供養塔。

湖西には小野妹子、小野篁の神社や墓がある。

 

戯れに家で石を立ててみた。