大津京秋月

 

指月斎と湖月会

 

 

月見ればちぢにものこそかなしけれ 我が身ひとつの秋にはあらねど

 

(大江千里 生没年不詳であるが、897年、宇多天皇の勅命により、和歌集を献上している。古今和歌集に10首採用されている歌人。)
ジャズピアニストの大江千里(せんり)と同姓同名だが、平安時代の歌人のほうは千里(ちさと)と読む。

 

私が指月斎と名乗るようになったのには、多くの偶然が関係している。昨年6月、私の住むアパートの近くで豊臣秀吉「指月城」の発掘調査が始まり、私の住んでいる場所が「指月の丘」に位置することを知った。
「指月の丘」の住人で「花鳥風月」を最優先に生活していたから、それで「指月斎」と名乗ることになった。

 

「月を見る機会が生活の中から失われてしまってから、久しい。毎日が忙しすぎて悠長に夜空を仰いでなどおれぬという事情もあろうし、月面に宇宙飛行士が降り立つ時代に月見の情緒も何もあったものではないということもあるだろう。しかし何より、私たちの周囲が夜もすっかり明るくなっていしまったことの影響が大きかったと思う。」(「琵琶湖のある風景」高城修三)。

 

1000年以上前の歌人に心を通わせることが出来るのは不思議だと思う。たぶん日本人に特有の感覚だと思うが、言霊(ことだま)という言葉がある。正に「和歌」は言霊である。何百年、何千年と生き続けて、心を通わせる。肉体が滅び去っても、言霊は生き続けているのだ。

 

さらしなやをしま(雄島)の月もよそならん ただふしみ江の秋の夕暮れ
(太閤秀吉)

 

何という事もない平凡な「和歌」だが、太閤秀吉が詠んだとなれば、俄然脚光を浴びる。秀吉は多くの人から愛されているのだから。

 

さて、信長・秀吉・家康のなかで誰が一番好きか?と問われれば、躊躇なく秀吉と答えるだろう。

 

 

 

信長・家康は理解しがたく、近寄りがたい「偉人」だが、秀吉は人を愛し、人に愛された分かり易い「おっちゃん」と言える。

 

豊臣秀吉の出自は「百姓」であり、庶民と言える。想像を絶する努力はあっただろうが、人たらしの天才で、上昇志向の強い分かり易い人格を持っていた。子供の秀頼が生まれてからは「老人狂気」が徐々に強くなるが、それも現代の高齢化と老人に特有の「痴ほう症」を先取りしていたとも言える。

 

北政所(ねね)は秀吉が亡くなると伏見城を出て、秀吉の菩提を弔うため慶長11年(1606)「高台寺」を建立し移り住んだ。
当時の高台寺とその塔頭は、北政所(ねね)を慕って、公家衆、諸大名、文化人ら多くの人々が集まる一大サロンとなり、桃山文化の中心だったと伝えられている。

 

「湖月会」は、そのような秀吉や北政所(ねね)を愛される人々の要望から生まれ、会の名は「ねね」の法名(高台院湖月心公)から付けられている。


「指月斎」と名乗らなければ、「湖月会」に入ることもなかったと思うと、言霊の偉大さに思いを馳せざるを得ない。
「湖月会」では12月10日(土)雪月花の催しが予定されている。

 

今年9月15日と16日の2日間、石山寺で秋月祭が行われた。
石山寺は平安時代に紫式部が参籠し、湖面に映える8月15夜の月を眺めているうちに、物語の情景が脳裏に浮かび、書き留めた一節が源氏物語の「須磨」「明石」に活かされたと伝わり、また近江八景「石山秋月」でも知られている。

 

今年は「石山秋月」を観賞するつもりでいたが、生憎9月15日は病院での検査などで忙しく、それどころでなかった。それで、2015年9月28日の「スーパームーン」を再度掲載する。


今年は10月16日(日)が満月なので、中秋の名月より肌寒くなると予想される週末に、どこか素敵な場所で秋月を楽しめたらよいなと思っている。

 

<参考資料>
琵琶湖のある風景(高城修三)東方出版1995年

 


宇治川秋月(2015年9月28日のスーパームーン)

 

指月城の跡地にマンションが建つ(クリックしてください)