藤樹神社に隣接する「陽明園」
藤樹神社
11月5日(土)快晴の中、安曇川(あどがわ)を訪れた。
目的は2つあって、一つは「藤樹の里文化芸術会館」で映画「マザーレイク」の上映会が開催されたこと、もう一つは「藤樹神社」に一度参拝しなければと長年思っていたこと。
「マザーレイク」は今回で4回目の鑑賞で、この地で開催されなければ、4回目を見ようとは思わなかっただろう。
「藤樹神社」については、存在は知っていて、前から行ってみたいとは思っていたが、そのためだけに行くには心が動かなかった。
恐らく、2つの目的がなければ、安曇川を訪れることはなかったかもしれない。
映画「マザーレイク」の詳細は「公式ホームページ」に譲る。良い映画なのに商業ベースに乗らないせいか、京都・滋賀以外での上映が行われないのは残念だ。現代日本は経済最優先で、文化・芸術も「金(カネ)」に換算されなければ、その価値が分からないようだ。
(下記をクリックしてください。ホームページが開きます。)
「中江藤樹」は戦前、小学校の「修身」の授業で取り上げられることが多かった。
戦後生まれの私は20歳頃まで中江藤樹をまったく知らなかった。中江藤樹を知ったのは、私の記憶が正しければ、内村鑑三の著作である。
内村鑑三は「代表的日本人」として5人を選び、明治27年(1894)日清戦争の年に出版している。
5人とは日蓮、中江藤樹、二宮尊徳、上杉鷹山、西郷隆盛である。内村鑑三がなぜ、この5人を選んだかを述べることは、内村鑑三を述べることになるので、ここでは省略するが、一つだけ言えば内村が「キリスト者」であることと大いに関係していると思う。
藤樹神社に隣接して「中江藤樹記念館」が併設されているので、その案内板から引用する。
近江聖人 中江藤樹記念館(案内板)
中江藤樹は、江戸時代初期の儒学者。晩年、中国明代の儒学者「王陽明」の唱えた「致良知」の説を最高の教学として示したことから、<日本陽明学の祖>とされている。
また、数多くの徳行によって<藤樹先生>と親しまれ、没後には<近江聖人>とたたえられる。
慶長13年(1608)3月7日、近江国高島郡小川村に生まれる。15歳、祖父吉長の家禄を継ぎ伊予の大洲藩士となる。
27歳、大洲藩士を辞して小川村に帰郷する。以後、慶安元年(1648)8月25日、41歳で没するまでの14年間、居宅に私塾<藤樹書院>を開き、武士や近隣の庶民に「良知の学(良知心学)」を押し広めた。
代表的門人に熊沢蕃山(ばんざん)、渕岡山(こうざん)……以降略
「案内板」では「大洲藩士を辞して」となっているが、実際は「脱藩」したと記念館のガイドさんが説明してくれた。「脱藩」の理由が「母親」に「孝行」するためというので驚いた。
平重盛の苦悩「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」は全く関係なく、ひたすら「母親」への「孝行」を優先させたようだ。当時としても、また現代でも特異な思想だと思う。
藤樹神社に隣接して中国式庭園「陽明園」がある。
パンフレットから引用する。
陽明園は、昭和61年(1986)から始まった王陽明(1475~1528)先生の生地である中国浙江省余姚市(よようし)と、日本陽明学の祖・中江藤樹先生生誕の地である滋賀県安曇町との友好交流シンボルとして建設した中国式庭園です。
この設計に際しては、上海の豫園、蘇州の抽政園や留園など、中国における代表的庭園を参考にしました。
「大湖石」と呼ばれる池の周囲などに配した奇怪な形をした岩石や塀の「龍瓦」を始め、陽明園に用いられている建築資材のほとんどは、中国から輸入したものばかりです。
八角平面の二層式あずま屋の「陽明亭」は、王陽明が講学した中天閣に残されている建物に倣って建築しましたが、このたびの陽明園における陽明亭は、余姚市文物管理委員会の時代考証をへて500年前の建築様式に基づき、余姚市城郷建設委員会の監修によって復元したものです。
藤樹神社についても「パンフレット」から引用する。
大正7年(1918)、滋賀県知事に就任された森正隆は、まず高島郡を巡視し、近江聖人の遺跡を親しく訪れた際、郡民のせつなる希望を入れられて、藤樹先生を神として祀り、その遺徳を万世に伝えようと決意されたのが、藤樹神社創立の発端でした。
(中略)
大正11年(1922)5月21日に鎮座祭を、翌日に奉祝祭を執行し、ここに藤樹神社が創立されました。
同年12月、久邇宮良子女王殿下(のちの昭和天皇の皇后)には、「我が敬慕する人物・中江藤樹」と題する学生時代の作文を、特別に藤樹神社にご下付賜りました。この作文は、現在、藤樹神社の門外不出の宝物として、大切に保存されています。
藤樹神社から南に5~6分歩いたところに、「藤樹書院」がある。中江藤樹記念館のガイドさんの強い勧めもあって、そこを訪問することにした。
藤樹書院についても「パンフレット」から引用する。
心のふるさと藤樹書院
「万民ことごとく天地の子なれば、われも人も人間のかたちあるほどのものは、みな兄弟なり」代表作「翁問答」より
武士が人の上にあって世を支配した江戸時代に、人間として生きるべき真実の道を求めて実践したのが、近江聖人中江藤樹先生です。
すべてを包み込む大きな心。人間への深い愛と畏敬。藤樹先生が熱い思いを込めて人々に語り掛けてきた藤樹書院には、今もその心が息づいています。
(中略)
先生の学問が受け継がれていくと思われた矢先に、この地を領していた大溝藩(おおみぞはん)は解散退去を命じました。未だ藩幕体制が固まらない時期に致良知の思想を学ぶ者たちが集まることを許しておけなかったのです。
そのような厳しい状況の中で、人目を忍ぶようにして続けられてきた書院での講会が復活するのは、先生が没して約70年後の享保時代になってからです。
(中略)
藤樹書院は門弟の熊沢蕃山をはじめとする多くの篤志者によって守られてきましたが、明治13年(1880)に村の大半を焼き尽くす大火によって惜しくも焼失しました。その時、重宝は村人によって無事に持ち出され、2年後に仮の講堂として再建されたのが現在の藤樹書院です。
自宅が類焼していく大火の中で神主(しんしゅ)、什物、書籍などのすべてを護り、我が家の再建に先んじて復活を願った村の人たちの篤い思いが込められています。(藤樹書院パンフレット終了)
中江藤樹が聖人かどうかはともかく、村人たちが何百年にも渡って「藤樹書院」を護ってきたことの方が驚きであり、頭が下がる思いがする。現代では失われてしまった「共同体」「ムラ社会」がいまだにここでは生き続けていることを強く意識した。そういえば、「文化芸術会館」「中江藤樹記念館」「藤樹書院」でお会いしたすべての人々が「なごやかな笑顔」で接していたことに思い至り、中江藤樹の「致良知」の精神がこの地域に、いまだに生き続けていることを実感した。
<参考>
藤樹先生「致良知・五事を正す」
良知に至る工夫は貌言視聴思(ぼうげんしちょうし)の「五事を正す」ことです。
なごやかな顔つきをし、思いやりのある言葉で話しかけ、澄んだ目でものごとを見つめ、耳を傾けて人の話を聴き、まごころをもって相手を思う。日常においてそのようにできれば良知に至っているのだと教えました。自らを省みて心を慎む日々を重んじたのです。
<参考資料>
代表的日本人(内村鑑三)岩波文庫1995年
安曇川駅を降りてまず目に入るのが、中江藤樹の大きな銅像である。
駅から15分ほど歩くと藤樹神社に到達する。
大鳥居の扁額の題字は東郷平八郎の揮毫とのこと。
拝殿にて参拝する。
異様な形の大湖石。
見ていると、落ち着くどころか、不安になってくる。
龍を象った「龍瓦」。
池泉にはまたしても奇怪な大湖石。
人を不安にさせるのは、日本庭園とは明らかに違う。
徒歩5分ほどで、藤樹書院に到着。
右から「徳本堂」と読める。
光格天皇から下賜されたものだという。
中江藤樹の掛け軸の絵画(梅戸在貞筆)。
梅戸在貞がどんな人か知らないが、人物を彷彿とさせる見事な筆致だと思う。
参拝を済ませ、隣接する陽明園に向かう。
皇帝に拝謁するときの姿を描いた等身大の王陽明石像。
余姚産の花崗岩が使われている。
陽明亭に向かう。
早々に陽明園を後にする。
建物内に入り、お参りさせていただく。
右から「致良知」と書いてある。
中江藤樹の書跡とのこと。
文化芸術会館脇の紅葉を見ながら、帰途に就いた。
地域社会がまだ息づいている村の生活は、どのようなものなのだろうか?