瀬田夕照。夕方の太陽がまぶしい。

 

 

唐崎の松は花より朧にて(芭蕉)

 

「唐崎夜雨」(近衛信伊)
夜の雨に音をゆづりて夕風を よそにそだてる唐崎の松

 

信伊の和歌が謡曲「三井寺」の母子別れを想起させるのに対し、芭蕉の句は雨の情景(夜雨)として鑑賞することが出来る。芭蕉の句の意味は、
「雨の降る朧月夜に湖上に浮かび上がるのは三井寺の桜かと思ったら、実は唐崎の一ツ松だったのか。」
芭蕉は近江八景の画賛「唐崎夜雨」を意識してこの句を詠んだと見ることが出来る。

 

ところが記録によれば、初案では、唐崎の松(孤松)を小野小町の末路に見たて、小町を憐れんで詠んだ次の句になっている。

 

辛崎の松や小町が身のおぼろ

 

この句から「唐崎夜雨」の情景は浮かんでこない。それで江戸に戻った芭蕉は、すぐ書簡で弟子に改作を示したという。芭蕉も「近江八景」が気になっていたと見える。

 

五月雨にかくれぬものや瀬田の橋(芭蕉)

 

「勢多夕照」(近衛信伊)
露時雨(つゆしぐれ)もる山遠く過ぎきつつ 夕陽のわたる勢多の長橋

 

「もる山」は雨漏りにかけた「守山」かとも思うが、よくわからない。

瀬田の唐橋は決戦の場として「壬申の乱」「承久の乱」などに登場するので、近江八景が広く知られる以前から有名な場所だった。

 

芭蕉の句の意味は「五月雨にすべての景色がかき消されているが、瀬田の唐橋だけは隠れることもなく佇んでいる。」ということか。
信伊の「つゆしぐれ」に対して芭蕉は「さみだれに」と応じており、画賛「勢多夕照」を意識した発句になっていると思う。

 

この蛍田毎(たごと)の月にくらべみん(芭蕉)


「石山秋月」(近衛信伊)
石山や鳰(にお)の海てる月影は 明石も須磨もほかならぬ哉

 

芭蕉が直接「石山秋月」を詠んだ句は見当たらない。
芭蕉は「石山秋月」を意識しつつ、直接的には「蛍」を詠んだ。
「田毎の月」とは信州姥捨山のふもとの千枚田に映る月影を表している。
近衛信伊公は「石山秋月」を明石や須磨に比較したが、芭蕉は石山寺に近い瀬田川に乱舞する蛍を、信州の田に映る月影と比較したのだろう。
石山寺から見る月が湖面に映らないことに、芭蕉は気が付いていただろうか。
蛇足になるが、「田毎(たごと)」という京都の日本料理店は、芭蕉の俳句に由来すると記載している。

 

三井寺の門たたかばやけふの月(芭蕉)

 

「三井晩鐘」(近衛信伊)
思ふそのあかつきちぎる始めとぞ まず聞く三井の入相の声(鐘)

 

声は「かね」「おと」と読みたいところだが、「こえ」なのだろうか。
近衛信伊と芭蕉は二人とも謡曲「三井寺」を意識しているように思われる。謡曲「三井寺」は行方不明になったわが子を探して、狂女となった女が三井寺の月下の景色を愛で、鐘楼に上がり込んで鐘を突くところが見せ場になる。
芭蕉の句「たたく」「月(つき)」は鐘を連想させる。また、信伊の「入相の声」は夕方の鐘を突く音を表しており謡曲「三井寺」を連想させる。

 

芭蕉の功績は「近江八景」を京都・湖南の文化に留めることなく、江戸の文化人にも知らしめたことだろう。上方の文化が江戸に伝わるスピードは思いのほか遅い。
科学技術(鉄砲伝来など)の伝播のスピードに比べて、文化が成熟し伝播するには相当の時間を要すると言ったところだろう。

 

<参考資料>
「京都・湖南の芭蕉」さとう野火(京都新聞出版センター)2014年


瀬田の唐橋の石碑を入れて、橋を撮ってみた。

 

瀬田の唐橋に咲く早咲きの桜の品種が気になった。多分、これだと思うが…(以下皇子が丘公園)

 

開花状況を調べると5分~7分咲きとのこと。

今日明日暖かいので、明日は満開だろう。

 

桜越しに、瀬田の唐橋を撮ってみた。

 

関東では河津桜(カワヅザクラ)が有名だが、湖南ではハツミヨザクラなのだろう。

 

本日のベストショット。

河津桜より色味が薄く、透けるようだ。