雪雲の切れ目に晴れ間の覗く大津京。さあ、天智天皇陵へ行こう!

 

 

滋賀県に1月14~15日記録的な大雪が降り、そういえば天智天皇が崩御されたのも確か1月だったような気がして調べてみると、昭和天皇が崩御された1月7日と同じ日に天智天皇も亡くなっていた。単なる偶然だが、大津京にいると心が動く。


早速、天智天皇陵を訪ねた。
参道の入り口近くで雪遊びをしていた子供たちは、私が参拝を終えて帰る頃には立派な雪だるまをこさえていた。
雪だるまを作る3人の無邪気な子供たちの姿が、天智天皇の3人の子供たちに重なり、子供たちの将来がふと不安になった。

 

中大兄皇子(天智天皇)と遠智娘(おちのいらつめ)の間には3人の子供がいて、上から大田皇女(おおたのひめみこ)、鵜野讃良(うののさらら)、建皇子(たけるのみこ)で、建皇子は幼くして亡くなり、2歳違いの姉妹は2人とも大海人皇子(天武天皇)に嫁ぐことになる。
シャンプーみたいな名前の鵜野讃良は天武天皇が崩御された後に持統天皇になり、女帝として日本を仕切ることになるが、凄まじい権力闘争の様子は里中満智子さんの「天上の虹」に詳しい。もちろん、創作なので、史実とは違うのだが、日本書紀には忠実に、かつ感情を持った人間ドラマを十分堪能させるように仕上がっていると思う。漫画なので、古代史の入門書として入り易いと思う。


天智天皇の一般的なイメージ「独裁者」「冷徹」は「戦国の覇者」織田信長のイメージと見事に重なる。琵琶湖の西に天智天皇、東に織田信長という配置も偶然だが、面白い。

里中満智子さんは「天上の虹」で鵜野讃良に天智天皇について、こう言わせている。
「父は冷たい人間よ。自分の立場を脅かす者は、たとえ実の弟のあなたでも消そうとする人よ」「私は忘れないわ。おじいさまは(蘇我倉山田石川麻呂)謀反の疑いを掛けられて父に殺された。それが原因でお母様は狂ってしまった」「自分の地位をより高く見せたがる人は、結局自分のことしか考えられない人だと思うわ。人の気持ちや幸福を考えられる人でないと、国民の先頭に立つ資格はないわ」
いつの時代も独裁者は孤独である。

 

天智天皇崩御(天智10年12月3日・西暦672年1月7日)

天智天皇の崩御の前に、後継をどうするか、大海人皇子(おおあまのみこ)との間で話し合いがあった。そのことは日本書紀の「天智天皇」と「天武天皇」の項にそれぞれ記載がある。「天智天皇」の項では極めて客観的に、「天武天皇」の項では大海人皇子に幾分有利に記述されていると思う。


宇治谷孟(つとむ)氏の「現代語訳」から重要と思われる部分を抜粋する。

 

「天智天皇」の項
9月、天皇が病気になられた。
(中略)10月17日、天皇は病が重くなり、東宮(大海人皇子)を呼ばれ、寝所に召されて詔し、「私の病は重いので、後事をお前に任せたい」云々と言われた。東宮(大海人皇子)は病と称して、何度も固辞して受けられず、「どうか大業は大后(皇后)にお授けください。そして大友皇子に諸政を行わせてください。私は天皇のために出家して、仏道修行をしたいと思います」と言われた。
天皇はこれを許された。

 

東宮は立って再拝した。内裏の仏殿の南においでになり、胡坐に深く腰掛けて、頭髪をおろされ、沙門(ほうし)の姿となられた。天皇は次田生磐(すぎたのおいわ)を遣わして袈裟を送られた。
19日、東宮は天皇にお目にかかり、「これから吉野に参り、仏道修行を致します」といわれた。
天皇は許された。東宮は吉野に入られ、大臣たちがお仕えし宇治までお送りした。

(中略)12月3日、天皇は近江宮で崩御された。11日、新宮で殯(もがり)した。

 

「天武天皇」の項
(大海皇子は)天智天皇の同母弟である。
(中略)天文や占星の術をよくされた。天智天皇の娘の兎野皇女(うののひめみこ)を迎えて正妃とされた。天智天皇の元年に、立って東宮(皇太子)となられた。
4年冬10月17日、天皇は病臥されて重体であった。蘇我臣安麻呂を遣わして、東宮を呼び寄せられ、寝所に引き入れられた。安麻呂は元から東宮に好かれていた。ひそかに東宮を顧みて、「よく注意してお答えください」といった。東宮は隠された謀(たばかり)があるかも知れないと疑って、用心された。
天皇は東宮に皇位を譲りたいといわれた。そこで辞退して、「私は不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。願わくは陛下は、皇后に天下を託してください。そして大友皇子を立てて、皇太子としてください。私は今日にも出家して、陛下のために仏事を修業することを望みます」といわれた。
天皇はそれを許された。
即日出家して法服に替えられた。それで自家の武器をことごとく公に納められた。
19日、吉野宮に入られることになった。
(中略)ある人が言った。「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と。

 

日本書紀には書かれていないが、天智天皇の寝所には伏兵が隠れていて、大海人皇子が後継の意思を少しでも示したら、「謀反だ」と叫んで切り付けるよう段取りされていたという。
そう思われるには理由がある。中大兄(天智天皇)は謀略によって何人もの政敵を退けてきた経緯があるからである。
蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子の殺害(乙巳の変645年)、出家して吉野に隠棲していた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の殺害(645年)、蘇我倉山田石川麻呂を山田寺にて自害に追い込む(649年)、次期天皇の有力候補である有間皇子の謀殺(658年)など、その手法が大海人皇子に熟知されていた側面もある。

 

日本書紀は勝者の歴史書であり、改竄捏造されたものだとはよく言われるが、それではどの部分が改竄捏造なのかというと、素人の私には分からない。というか、改竄捏造だという学者の説も、日本書紀以外に有力な史料がない以上、推測の域を出ないと思う。
日本書紀は720年に完成しており、存命者の多い50年くらい前の事件については、無茶な捏造は出来ないと思われるので、天智天皇崩御の記述はかなり正確な記述だと思う。日本書紀を読んでみてそう思った。

 

<参考資料>
日本書紀(宇治谷孟)講談社学術文庫1988年
天上の虹(里中満智子)講談社漫画文庫2000年

 


天智天皇陵の参道入り口で、雪遊びに興じる子供たち3人がいた。

 

参拝する先達が一人。聞くところによると、普段は清掃奉仕をしているとのこと。

 

参拝路を戻る。

 

眼と鼻と口を入れないと、完成しない。

余計なおせっかいだ。

 

 

参道を進む。

参拝者の靴跡が残る。

 

参拝するだけでは、陵墓が八角形をしているとは気づかない。

 

雪だるまづくりも佳境を迎えていた。

 

東海道沿いの立派な民家。

松の風情が良い。