長寿寺の参道。

 

長寿寺(湖南三山)

 

湖南三山へ4か月ぶりに2回目の訪問を果たした。とは言っても、2回訪問したのは長寿寺だけだ。前回7月16日に訪問したのが「長寿寺」と「善水寺」で、今回訪問したのが、「長寿寺」と「常楽寺」だ。
なぜ長寿寺に2回も行ったかというと、受付けの男子高校生に、もう一度会いたかったからだ。初めて行ったのが7月16日の蒸し暑い時期で、レンタサイクルを漕いで汗だくで、水が欲しいと思っていた時に、受付の男子高校生が気を利かせてお茶を出してくれた。

参拝客の少ない時期で、留守番の男子高校生が住職にお茶を出すように言い含められていたのかもしれないが、それにしても気が利いていると思った。


また、長く伸びた参道の所々に、住職の趣味と思われる小物が配置されているのだが、微笑ましくて私は気に入った。

パンフレットから湖東三山を紹介しておく。


<長寿寺>
聖武天皇の天平年中(729~748)、良弁(ろうべん)僧正によって建立された勅願寺であり、国宝に指定されている。その昔、聖武天皇は大仏造営のため、一時信楽宮(しがらきのみや)に遷都されたが、世継ぎがなかったので、良弁に起請せしめたところ、良弁は阿星(あぼし)山中の瀑布に籠って祈った結果、間もなく降誕をみるに至った。
皇女生誕にちなむ子安地蔵尊を行基菩薩に刻ませて本尊とし、皇女の長寿を願い長寿寺という寺号を贈った。
(中略)

 

 

 

天正の頃、織田信長によって三重塔は居城の安土城に、楼門は栗東市の蓮台寺に移築され、本堂を除く主要な建物を失った。

 

(注釈)良弁僧正は行基に協力して奈良の大仏(盧舎那仏)造営に力を尽くし、天平勝宝4年(751)に、東大寺大仏建立の功績により、東大寺の初代別当になった。近江志賀の石山寺の建立に関わったことでも知られている。通称「金鐘行者(こんしゅぎょうじゃ)」。


<常楽寺>
阿星山(あぼしやま)の北麓にある当寺は、和銅年間(708~715)元明天皇の勅命により、良弁が開基した阿星寺五千坊の中心寺院として、また紫香楽宮(742~745)の鬼門鎮護として栄えた。
延文5年(1360)火災で全焼したが、同年、観慶らによって再興された。
本堂と三重塔は国宝に指定されている。

 

<善水寺>
和同年間(708~715)元明天皇勅命により鎮護国家の道場として草創され、和銅寺と号した。
(中略)
後に、京の都で桓武天皇御病の際、傳教大師最澄、霊仏出現の池水を以って薬師仏の宝前にて病気平癒の祈祷を修すること7日、満行なってこの霊水を天皇に献上されたところ、御病忽ち平癒された。この縁によって「善水寺」の寺号を賜ったという。

 



長寿寺前の景観。

 

長寿寺の山門。

 

参道には微笑ましい小物が並ぶ。

 

白山神社がかくれ神。

 

もはや判読不能の案内板。

三重塔が信長に分捕られ、安土城に移築されたと書いてある。

 

<参考>安土城跡にある三重塔(重要文化財)。

甲賀から移築されていなければ、多分国宝だと思う。

 

別の角度から見た本堂。

 

常楽寺の国宝「三重塔」と「本堂」。

 

常楽寺の三重塔。

 

常楽寺の紅葉は見ごろだった。

 

夏の善水寺。

 

善水寺の本堂を別の角度から撮影。

 

長寿寺の近くの「じゅらくの里」噴水。

 

じゅらくの里の紅葉。見ごろを迎えている。

 

このあたりが昔「甲賀」と呼ばれていたことを示す「甲賀警察署石部交番」。いきなり写真を撮ると、また拘束される恐れがあるので、撮影する前に警察官に撮影許可を得た。

 

4か月前の同じ場所。長寿寺前の景観。

 

長寿寺の参道。

 

季節によって、小物を変えているようだ。住職の趣味?

 

左の階段を上ると三重塔跡に出る。

 

三重塔の礎石。

左奥にも礎石らしいものが見える。

 

国宝の本堂。

かろうじて当時のまま残された。

 

長寿寺にある弁天堂(重要文化財)。

 

常楽寺の本堂(国宝)。

 

常楽寺の三重塔。手前は長谷寺(見立て)の石仏。

 

同じく常楽寺の紅葉。

 

善水寺の本堂(国宝)。

 

善水寺の名前の由来となった「善水元水」。

 

「じゅらくの里」の独特の木橋。

 

じゅらくの里の景観。

 

石部のシンボル「菩提寺山」。標高353メートル。

菩提寺山の陰に三上山(近江富士)が隠れている。ちなみに三上山の標高は432メートル。