蒲生野(がもうの)候補地(その1)東近江市(旧八日市市)市辺(いちのべ)の「万葉の森」。

 

 

大津京、およびその中枢部である大津宮がどこにあったのか。文献史料には、具体的には何も記されていない。このため、大津京との構造とも関連させて、その所在地論争が江戸時代から繰り返されてきた。
大津京の所在地については、北から穴太(あのう)説、志賀里(しがさと)説、南滋賀説、錦織(にしこうり)説、大津市街地説などがあった。

「扶桑略記」には、大津宮の北西山中に崇福寺のあることが記されており、まず崇福寺を確定し、その後その南東方向で大津宮を探ろうとした。

 

1974年10月中旬、錦織の「志賀宮址碑」のすぐ南側で民家を取り壊した後、今にも工事にかかろうとする掘削用重機が据えられているのに、林博通先生は気が付いた。「志賀宮址碑」はさほど強い根拠もなく明治28年(1895)に建てられたもので、文化財保護法で定める「周知の遺跡」には登録されておらず、工事をそのまま実施してもなんら問題はない土地であった。
林先生の粘り強い説得と、いくつかの偶然が重なって、土地所有者の伊藤誠さんから発掘調査の許可が下りた。

 

調査に入ったのが11月18日である。
発掘してみると思いもかけない結果となった。
最初に設けた3メートル四方の試掘抗(トレンチ)において、深さ1.2メートルの地点から巨大な方形の柱穴と柱抜き取り穴と見られる、宮殿の柱穴に匹敵する遺構が一基発見されたのである。大津宮発見の第一報である。

 

錦織2丁目で最初に発見された建物遺構が、内裏と朝堂院(役所)を分ける「内裏南門」であることが間もなく判明した。
ちなみに、私の住むマンションは朝堂院の敷地の中だろうか。

 

大津京があったのは667年3月から672年8月までの5年5か月で、その中でも、もっとものどかな時期とみられるのが、遷都から1年ばかり経った668年5月5日(今の6月22日)の蒲生野の遊猟(みかり)であろう。
有名な場面であるが、「日本書紀」の記述はそっけないほど簡潔である。
「天皇、蒲生野に狩りし給う。時に大皇弟(ひつぎのみこと)、諸王、内臣、皆ことごとくに従(おおみとも)なり」
大皇弟とは後の天武天皇(大海人皇子)の別称である。

 

蒲生野の狩場は皇室の管轄地で、そこには薬草園も広がっていた。薬草摘みは女性の、狩りは男性の役割であった。

 

あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王)

 

紫草(むらさき)のにほえる妹(いも)を憎くあらば 人妻ゆえにわれ恋やもめ(大海人皇子)

 

この歌は薬狩りの宴席において二人が詠みあった歌とみられる。むろん、天智天皇臨席のもと、大勢の官人・女官も二人のやりとりに固唾を呑んで聞き入ったことだろう。
ただ、この「蒲生野の相聞歌」がどこで詠まれたか、所在地についてはいまだに不明である。<注1>


白洲正子さんの「近江山河抄」によれば、
「周知のとおり、額田王は、はじめ大海人皇子(天武天皇)の愛人で、後に天智天皇の後宮に入った女性である。

 

例の三山の歌<注2>とともに、三角関係の代表のように言われ、壬申の乱の元を作ったという人もいる。が、実際はそんなに面白い話ではなかったと思う。当時の男女関係は、今の我々には不可解なことが多く、どこまで信用していいかわからない。」と手厳しい。
続けてこうも書いている。
「これはどうしても一種の戯歌、といって悪ければ儀礼の詠歌で、誰もが知っている過去のロマンスを題材に、当座の興に詠んだものに違いない。三山の歌も、元は「播磨風土記」の伝説で、天皇の御製というより民謡に近い。」

 

最近出版された「捏造された天皇・天智」(渡辺康則・大空出版2013年)では「天智をコケにする紫野」という見出しで「大海人皇子と額田王が天智をコケにするという図式です」と書いてあるが、そんな単純な図式ではないだろう。日本書紀の簡潔な記述「大皇弟(ひつぎのみこ)」についても「この大皇弟は、おそらく大友皇子です」と記述するくらいだから、参考にならない。

 

さて、牧歌的と思われた大津京に、にわかに暗雲が垂れ込めるのは、遷都から2年半ほどが経った669年10月16日(今の11月17日)のことである。
天智天皇と大海人皇子の間に立ち、近江朝廷を支えてきた中臣鎌足が没した。没年56歳であった。

1年近い殯(もがり)のあと、山階寺(山階精舎)で葬礼が行われた。  
山階寺はその後、大和に移り厩坂寺(うまさかでら)と呼ばれ、さらに平城京に移り「興福寺」となった。

 

<注1>
「蒲生野の相聞歌」の2年後、670年2月の日本書紀にはこうある。 「時に、天皇、蒲生野の櫃詐野(ひつさの)に幸(いでま)して、宮地(みやどころ)を観(みそな)はす」(詐は原文ではシンニュウ)
天智はこの地に新たに宮都を造営しようとしたのだろうか?


「蒲生野」の範囲については、旧八日市市市辺(いちのべ)町・野口町に「小蒲生野」「蒲生野口」、近江八幡市末広町に上下の「蒲生野」、同市西生来町に「蒲生口」、安土町内野に「蒲生野」などの地名が残っていることから、雪野山の北東の平地一帯を指す見解があるが、天智天皇の2度にわたる行幸を考えると、蒲生町や日野町にまで広がる広範な地域を指すとみるべきであろう。
669年に百済の遺臣鬼室集斯(きしつしゅうし)ら700余名が蒲生野に移されたのは、この蒲生野の開発(遷都)に関するものと思われる。

 

<注2>
「例の三山の歌」は「大和三山」を指す。
香具山は 畝傍ををしと 耳成(みみなし)と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻を あらそふらしき(中大兄皇子)
<現代語訳>
香具山は畝傍山を男らしい者として、古い恋仲の耳成山と争った。神代からこうであるらしい。昔からそうだったから、今も愛する者を争うらしい。

 

<参考資料>
幻の都大津京を掘る(林博通)学生社2005年
大津京と万葉集(林博通)新樹社2015年
近江山河抄(白洲正子)講談社文芸文庫1994年

 


明治28年(1895)に建てられた「志賀宮址碑」。100年以上経過して、文字が読み取れない。第一地点からすぐ北にある。

 

第二地点の標識。

 

京阪志賀里駅から、大変寂しい山道を登っていくと崇福寺の遺跡にたどり着く。発掘品の多くは国宝指定されている。

 

蒲生野候補地(その1)船岡山に登ると、額田王と大海人皇子の歌碑が複数建っている。

 

蒲生野候補地(その1)万葉の森には「蒲生野遊猟」の美術陶板が展示され、目を惹く。

 

蒲生野候補地(その2)比都佐神社の参道。

「ひづさ」と読む場合と「ひつさ」と読む場合と、二通りあって、どちらが正しいか分からない。

 

比都佐(ひづさ)神社に参拝する。

日野駅の北にある必佐小学校は「ひつさ」と発音するらしい。

 

 

山階寺(やましなでら)は中臣鎌足の持仏堂が始まりとされる。場所が特定されているわけではないが、山科駅近くの石屋さんの店先に案内板が設置されている。左の赤煉瓦は「京都薬科大学」。

 

第一地点の案内板。1974年、最初に発掘調査が行われた。

案内板の解説は、簡潔に分かり易く書かれている。

 

第二地点は、大津宮内裏正殿があったと推定される。

 

案内板には668年に崇福寺が創建されたことや、壬申の乱後の盛衰について書かれている。

 

自然石に埋め込まれた漢文で書かれた歌碑。

たぶん原文なのだろう。

 

美術陶板の左側に目を転ずると、稲刈りの終わった田と山(雪野山か瓶割山か不明)が見える。

 

最寄りの日野駅近くで道を尋ねたところ、「ひづさ」神社ですよと教えてくれたが、明日の新嘗祭の準備をしていた人は「ひつさ」神社と言っていた。どちらでも良いのでは…とも。

 

神社参拝からの帰りに日が差してきたので、振り返って撮影した。この地が、額田王と大海人皇子が歌を詠みあった蒲生野かどうか、分からない。

 

山科駅から「山階寺跡」を目指す場合、旧東海道を京都方面に進んで、「五条別れ道標」を左折するとすぐだ。