曇り空の「皇子が丘公園」紅葉林。

 

 

京阪皇子山駅、皇子山中学校、皇子山総合運動公園、そして皇子が丘公園、これらに共通する「皇子」とは誰のことなのだろう。
日本書紀(宇治谷孟訳)には、次のような記述がある。
「こうして大友皇子(おおとものおうじ)は逃げ入るところもなくなった。そこで引き返して山前(やまさき)に身をかくし、自ら首をくくって死んだ。」

この「山前」の場所については、大津市長等山前が有力視されているが、京都府乙訓(おとくに)郡大山崎の説もある。

 

2015年10月に「壬申の乱と炬火祭」の記事をブログに掲載したことがあるので、そちらを参照してもらいたいが、京都府の淀川河畔の「山崎」に大友皇子が隠れていたことを前提として、伏見の「炬火祭」は成立する。

 

壬申の乱と炬火祭(クリックしてください)

 

25歳という若さで自ら死を選択せざるを得なかった大友皇子の思いはいかばかりであっただろう。
大友皇子が即位したかどうかは定かでないが、明治3年(1870)に諡号を贈られて弘文天皇となった。陵墓は大津市長等山前にある。

 

大友皇子が亡くなって18年ほどたってから柿本人麻呂はさざ波の都「大津京」を訪れ、次のような歌を詠んでいる。ちなみに柿本人麻呂は大友皇子よりも一回り(12歳)若いと言われているので、壬申の乱のときは13歳という事になる。

 

荒都を嘆く人麻呂の歌
「玉欅(たまたすき)畝傍の山の橿原(かしはら)の 日知(ひじり)の御代ゆ生(あ)れましし 神のことごと樛(つが)の木の いやつぎつぎに天の下 知らしめししを天(そら)にみつ 大和を置きてあをによし 奈良山を越えいかさまに 思ほしめせか天離(あまざか)る ひなにはあれど石走る 淡海(あふみ)の国の楽浪(さざなみ)の 大津の宮に天の下 知らしめしけむ天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の大宮は 此処と聞けども大殿は 此処と言えども春草の 繁く生いたる霞立ち 春日の霧(き)れるももしきの 大宮処見れば悲しも」
<現代語訳>
「初代天皇である神武天皇が畝傍山のふもとの橿原におられた御代以来、お生まれになった天皇のすべてが、次々に大和国において天下をお治めになったのに、その大和国を捨てて奈良山を越え、何とお思いになったのか、畿内から外れた辺鄙な田舎ではあるが、近江の国の大津宮で天下をお治めになったという、あの天智天皇の宮室、ここと聞くけれど、宮殿はここだと言うけれど、今は春草が生い茂っている。霞が立って春の日差しがにぶく霞んでいる。この皇居の跡を見ると心悲しい。」

 

これから来年3月まで、「大津京」「壬申の乱」について、紹介していく予定だが、今回の写真は紅葉(もみぢ)を中心に据える。

蛇足ながら一首。
皇子山熱き血潮に染まるらん 昔ながらの山もみぢかな(指月斎)

 

<参考資料>
大津京と万葉集(林博通)新樹社2015年
日本書紀(宇治谷孟)講談社学術文庫2015年


紅葉林へのエントランスも風情がある。

 

少し日差しのある、見ごろの紅葉林。

 

橋を渡ると、四阿(あずまや)がある。

 

18日快晴の陰影のある紅葉林(その1)。

 

京阪皇子山駅から10分ほど歩くと、最初に現れる遺跡が「第8地点」8番目の遺跡になる。

 

深さ1.2メートルの地点から巨大な方形の柱穴と柱抜き取り穴とみられる、宮殿の柱穴に匹敵する遺構が発見された。

 

掲示板に発掘当時の写真が付いている。

大変分かり易く書かれている。

 

弘文天皇陵に行く途中に結婚式場(レストラン)のFURIANがあるので、目印になる。右奥に小さく見えるのが比叡山。

 

散った紅葉も「敷き紅葉」として楽しめる。

 

銀杏(いちょう)も葉を落としていた。

 

18日は晴れていて、皇帝ダリアが威張って見える。

 

18日快晴の陰影のある紅葉林(その2)。

 

第8地点からすぐ北に「第1地点」が現れる。1974年11月、最初に発見された遺跡である。

 

南北方向に延びる柱穴の遺跡。柱穴の並びから、門(内裏南門)とそれに取り付く回廊と判断された。

 

柿本人麻呂の歌碑。

柿本人麻呂の才能は持統天皇のもとで開花した。

 

弘文天皇陵。

時折、団体旅行者がいる以外は、静かな環境だ。