三井晩鐘。夕方の仁王門(重要文化財)。

 

 

バッハ「G線上のアリア」と荒井由実(ユーミン)「ひこうき雲」を繋ぐものとして、プロコルハルム「青い影」が存在することは良く知られていると思う。

 

宗迪(そうてき)「瀟湘八景」と近衛信伊「近江八景」が余りにもかけ離れた風景なので直接のつながりが想像できない。何か二つを繋ぐものがあるのではないかと探索しているが、今のところ決定的な証拠は見つかっていない。


最近、謡曲「三井寺」にそのヒントがあるのではないかと思うようになったが、学者の誰も言及していないようで、自信はない。

まず、謡曲「三井寺」のあらすじから始めたい。公式Webサイト「三井寺」によれば、以下のようになる。


能「三井寺」は、中秋の名月の三井寺を舞台に親子の再会を描いた名曲として知られている。我が子をさらわれた母が、狂乱状態となって、清水の観音様のお告げに従い、三井寺を訪れ、鐘を撞くことが機縁になって子供と巡り会う、というストーリーである。

 

場面は三井寺。舞台には木で組んだ鐘楼があり、上部には小さな鐘が飾られている。時正に中秋の名月。三井寺の住僧が弟子の千満(せんみつ)を連れて講堂の庭での月見に出かける。そこへ子を失った母が、竜宮から持ち帰ったと伝える三井の名鐘を(注)、龍女成仏にあやかって、自分も撞きたいと近づく。

 

(注)俵藤太(藤原秀郷)の「むかで退治」に、見事むかでを退治したお礼に藤太が竜宮城に招かれる記述がある。帰りに龍神より「釣鐘」を贈られ、これが三井寺に寄進されたという伝説がある。

 

住僧は制止するが、母は中国の古詩を持ち出して、詩聖でさえ名月に心狂わせて、高楼に登り鐘を撞くというのに、ましてや狂女の私がと、鐘を撞いて舞う。
「憂き寝ぞ変わるこの海は、浪風も静かにて秋の夜すがら月澄む。三井寺の鐘ぞさやけき。」
やがて、弟子の千満(せんみつ)は住僧に女の郷里を尋ねるよう頼むと、女は駿河の国清見ケ関の者であると答え、女は千満が我が子であることを知る。


かくて母子は、三井の名鐘の縁によって再び巡り会う事が叶う。離れ離れになった親子の心情を描くに、琵琶湖上に輝く名月と湖面に響く鐘の音を配した「三井寺」の舞台は、まことにふさわしいものとなっている。

ここで近衛信伊の「近江八景」画賛をもう一度見てみよう。

 

三井晩鐘
思うそのあかつきちぎる始めとぞ まず聞く三井の入相の声(鐘)

 

唐崎夜雨
夜の雨に音をゆずりて夕風を よそにそだてる唐崎の松

 

母子の生き別れから三井寺の住僧に育てられた我が子を探して、山越えから三井寺に向かう途中、唐崎の一ツ松(孤松ともいう)のあたりで、鐘の声を最初に聞いたようには思われないだろうか。
近衛信伊は謡曲にも通じる当代一流の文化人であり、謡曲「三井寺」を熟知していたと思われる。

瀟湘八景を謡曲「三井寺」で濾過することにより、あるいは謡曲「三井寺」を触媒にして、近衛信伊の「近江八景」は生まれたのではないか。

 

「近江八景」の中で音をテーマにした画賛は「三井晩鐘」だけであり、「近江八景」のベースには常に三井寺の鐘の重低音が響いているように思われる。

 

1374年または1375年、観阿弥が今熊野で催した猿楽(申楽)能に12歳の世阿弥が出演した時、室町将軍「足利義満」の目に留まった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになる。

 

謡曲「三井寺」の作者は一般的には不詳となっているが、世阿弥の若い頃の作品ではないかという「世阿弥の恋(梅原猛)」説がある。これ以降の文章は梅原説に負うところが大きい。

 

世阿弥作と断定される「桜川」と作者不詳とされる「三井寺」について、梅原猛は比較検討する。


「桜川」と「三井寺」はまことによく似ている。それは見事な王朝美学の能である。王朝美学において最も尊ばれるものは春の桜であり、秋の月である。桜と月は「古今和歌集」以来、様々な歌人によって美しく歌われてきた。


「桜川」は満開の桜が散り、桜花が川を流れるのを網ですくおうとする狂女がシテである。「三井寺」は中秋の名月の日に三井寺の鐘を撞く狂女がシテである。まことに詩的なイメージである。
しかし、この美学は王朝美学でありながら、王朝美学に尽きるものではない。なぜなら、この二つの能には人商人(ひとあきんど)と狂女が登場するからである。人商人や狂女は「古今和歌集」や「新古今和歌集」にも出ず、「伊勢物語」にも登場しない。「桜川」「三井寺」には王朝美学を背景にしながら作者独自の思想があると言ってよいであろう。

 

このような人商人の物語は古代の物語にも近世の物語にもあまり見られないであろう。戦乱に明け暮れた南北朝、室町時代の物語に多く登場する。この能の作者はそのような人商人に売られた子供の話を多く見聞きしたに違いない。

 

もう一つ、これらの能が王朝の美学と異なるのは、狂女の登場であろう。狂女は男に捨てられたり、子供と別れたりすることによって物狂いとなった者である。このように悲惨な運命を辿った人間が物狂いになるのは当然であろう。物狂いの中にこそ真実の心正しい人間が存在している。

 

しかもこの二つの能においてシテの女物狂いはまことに博学なのである。彼女たちは和漢の文学に通じているばかりか、内典すなわち仏教経典や外典すなわち儒教などにも甚だ深い理解を持っている。物狂いは常人と比べるもののない程の教養を持っているのである。

 

「三井寺」は大変優れた曲であり、私は世阿弥の美学が全面的に出ていると思う。そこには実に絢爛たる言葉があり、日本の歌、中国の詩、仏教および儒教の甚だ豊かな教養が歌われている。どちらかというとペダンティックなところさえあり、「三井寺」は世阿弥の初期の傑作であると考えられる。世阿弥以外の作者に書ける曲とは思えない。

 

<参考資料>
世阿弥の恋(梅原猛)角川学芸出版2012年
公式Webサイト「三井寺」

 


俵藤太の「むかで退治」。首尾よくむかでを退治した藤太は、竜宮城に招かれ、帰りに釣鐘をいただく。

 

後に藤太は釣鐘を三井寺に寄進し、それは弁慶の引摺り鐘として今でも有名である。