高台寺圓徳院北庭
高台寺圓徳院の北庭は禅の庭ではなく、伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的庭園だ。
ねねの兄木下家定とその次男利房が高台寺の門前に屋敷を構え、高台院は58歳から77歳でこの世を去るまでの約20年間をここで過ごした。
高台院が亡くなって9年後(1632年)に木下家の菩提寺として圓徳院が開かれていることからも、以前からあった北庭は禅の庭とは全く関係がないことは明らかだろう。
数年前、圓徳院北庭である事件が起きた。
外国の小学校高学年くらいの女の子がいきなり持っていた靴を沓脱石に置くと、勢いよく庭に飛び出した。左側の橋を渡り、鶴島の上で手招きをしている。父親らしき人物がその後を追い、鶴島の上でポーズを取った。
その後のことはよく知らないが、数か月後に訪れたとき、「庭に下りないでください」と沓脱石に注意書きが置かれていた。
寺院も私も「神仏の庭」に靴のまま入るとは到底考えられないことで、驚くと言うよりうろたえた。そして少し時間がたってから、さもありなんと納得した。
圓徳院北庭は「神仏の庭」ではなく、「人間の庭」なのだ。蓬莱神仙は方便であり、人間が下りて楽しむ庭が「人間の庭」なのだ。直感的に外国人の少女は下りて良いと判断した。
私は外国人の少女と父親の姿にねねと秀吉の姿を想像した。ねねも存命の時にはそのように鶴島の上で秀吉を偲んでいたのではないかと思った。
ねねと秀吉が木幡山伏見城で過ごしたのは慶長2年(1597)5月から秀吉が亡くなる翌年8月18日までの1年半に満たない。しかし、ねねはこの期間、秀吉と最も濃密な時間を過ごしたようだ。北庭を眺めながら高台院は在りし日の秀吉を偲んでいたのだろう。
北庭は醍醐寺三宝院庭園を造った賢庭作とパンフレットに書かれている。のちに小堀遠州が手を加えた。しかし、資料的にははっきりしないそうだ。
また巨石・名石がふんだんに使われていることも特徴で、伏見城化粧御殿の広い庭から石を運び込んだため、狭い庭に必要以上の庭石が使用されるようになったのかもしれない。
いずれにしろ、秀吉好みの豪華・豪快な庭園に仕上がっている。
秀吉は、信長ほどではないにしろ神仏に対する畏敬の念を持ち合わせていなかったように思われる。神仏に対して、きわめて合理的な判断(現世利益)をする。比叡山の焼き討ちや方広寺大仏造立の経緯などから、そのように判断できる。
文禄5年(1596)、閏7月13日に発生した慶長伏見大地震により方広寺大仏は倒壊した。このとき秀吉は「自らの身も守れないのか」と大仏に激怒し、大仏の眉間に矢を放ったと伝えられる。また、イエズス会宣教師の書簡にも同様の記述がある。「太閤様は死去の前にその姿(崩壊した大仏の姿)を見て非常に憤り、それを粉々になるまで砕いてしまうように命じてこう言った。もし、地震の時に自分自身も助けることが出来なかったのなら、ほかの人々の役に立てるはずがなかった、と。」
室町時代の枯山水は「神仏の庭」だった。秀吉の時代になって、「神仏の庭」から「人間の庭」にパラダムシフトが起こった。同じ「蓬莱神仙の庭」でありながら、圓徳院北庭は龍源院(りょうげんいん)南庭とは全く違うコンセプトで造られている。それを進歩と呼ぶか退廃と呼ぶかは芸術の問題ではなく、信仰の問題だろう。
<参考資料>
禅僧とめぐる京の名庭(升野俊明)アスキー新書2008年
モダン枯山水(重森三玲)小学館2007年
左が鶴島で右が亀島に見える。
樹木が茂って奥の滝石組は隠されている。
亀頭石は第二橋のすぐ右手にある石だろう。
左が鶴島らしいが、よくわからない。
2015年は5~6回、圓徳院に足を運んだ。
巨大な第二橋と切石の第三橋の間にあるのが亀島。
ガイドさんは切石の第三橋を鶴首石ではないかと言っていたが、見立ては自由とは言え、どうか?
夜ライトアップされた圓徳院北庭。
奥の滝石組がよく見える。
第一の橋と鶴島。
左右の尖った石が羽石と思われるが、よくわからない。
ガイドの方はこちらを亀島と説明していた。
蓬莱石があるというが、どこだろう?
たぶん枯滝組のところにある立石だろうが、この写真の奥にある立石も蓬莱石の候補だろう。
石が多すぎて、見立てが難しい。