第32番「観音正寺」奥の院

第32番「観音正寺」

 

観音正寺の奥の院に続く坂道に鳥居が建っている。
お寺なのに鳥居と不思議がる方もいるが、昔はこれが普通だった。
では、いつから神社とお寺が違うものになったのか?
戦後と思っていたら、どうやらもっと昔、明治新政府が明治元年3月に神仏分離令を出してからのようだ。
東京では徹底された神仏分離令も近江のような田舎まではその効力が及ばなかったのか、近江では寺院のいたるところに鳥居が建っている。

 

榊葉に心をかけん木綿四手で 思えば神も仏なりけり(西行)

 

日本人がいつから神仏を同一視するようになったのか、考えてみた。

山の神は春になると雪解け水に乗って山から下りてきて、里の桜など花々を咲かせ、やがて地に潜って田の神となり、秋に黄金色に輝く稲穂を実らせる。そして山の神はたいてい女神なのだ。

水田耕作の始まった弥生時代以降の神様のイメージはこんなものだろう。

 

 

 

では、縄文時代の神様のイメージはどのようなものだろうか。

確かな証拠に乏しいので断定はできないが、山の頂上付近の大岩や大石が神様の起源の一つではないかと思われる。大岩の隙間から清水が流れ下り、水もまた神様となる。山川草木悉皆成仏と言われるように縄文の人々は万物に神を見ていたと思う。

やがて時代が下り、538年に仏教が日本に入って来て、もともと信仰の中心であった山岳地帯にお寺が建てられるようになると、日本の古神道と結びついて修験道のような日本固有の宗教が生まれた。


明治以降、修験道自体はすたれてしまったが、神と仏を同一とみる宗教観は主に修験道を取り入れた天台宗が788年の開山以降作り上げたものだと思われる。比叡山延暦寺と日吉大社に行って、歩いてみれば一度で納得する。

 

苦悶しつつただ一心に我が道を 求め続けて母なる湖へ(加賀千代子)

 

琵琶湖にきて思うことは神と仏の融合である。

 


休暇村「近江八幡」に集合

2016年9月以来、「尾瀬の中島さんちでただ飯を食べた人たちの会」がこの地で3年ぶりに開かれた。

今回の参加者は25名。

 

中型バスを貸し切り

休暇村→沙沙貴神社→観音寺城跡→繖山

→観音正寺→石馬寺

 


沙沙貴神社の楼門(1747年)

2014年、ヨシぶき屋根の葺き替えが38年ぶりに行われた。

 

沙沙貴神社では祭礼で神輿(山車)が見られた。

大変珍しいものを見た気分だ。

 

少彦名命と勾玉。少彦名尊とも。

少彦名命は東京神田明神では「恵比須様」として祀っている。

 

桑実寺。

長い階段が続く。

 

観音寺城は永禄11年(1568)六角承禎(じょうてい・よしかた)が織田信長の攻撃を受け、戦わず城を放棄したことにより、比較的保存状態が良いまま残された中世の山城である。

 

奥の院あたりは巨岩がごろごろ。

ちなみに巨岩という言い方は明治期以降のようだ。それまでは大岩、大石と言っていた。

 

観音正寺の裏山におびただしい石仏群?

山が崩れないように石垣の代わりとのこと。

 

石馬寺への道筋で、桜の並木が出迎えてくれた。

思ったよりも早く石馬寺に到着。

 

石馬寺への参道もまた長い階段だ。

お疲れ気味の人もちらほら。

 

沙沙貴神社拝殿と本殿。

本殿は修復作業中のようだ。

 

境内は掃き清められた砂の上に礼拝石と磐座が鎮座している。

磐座については磐境(いわさか)、石神(しゃくじ)と併せて考えたい。

佐々木さんの多くは沙沙貴神社の氏子らしい。

東京の佐々木さんもここの出身が多い。

 

南北朝時代の本堂は戦禍にも会わず、ひっそりと佇んでいる。

国の重要文化財に指定されている。

 

繖山の頂上(433メートル)

ここにたどり着くまでに色々あったが、一人のけが人もなく、全員登頂できて良かった。

 

このあたりが奥の院だと思うが、よくわからない。

大岩さん、大石さんという苗字はよくあるが、巨岩さんという苗字には出会ったことがない。

 

珍しい魚籃観音。

津波から人々を守るとも信じられている。

 

聖徳太子が乗り捨てた馬が石に変わっていたという。

馬というより龍の背中に見えるが。

 

石馬寺には迫力ある役行者像など8体の重要文化財があり、見ごたえ十分。

ここでは撮影を許可された石庭を掲載する。